第1章 ながい眠り

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 夜のとばりは完全に落ちていた。来島姉弟にお礼を言った後、歩は繁華街を後にした。  今は小高い丘の上にある住宅街を目指している。昼間にお邪魔した高崎家へ向かおうとしているのだ。  緩やかな傾斜の歩道。その脇には、春を告げる桜の淡い色が夜の黒の中に華やぐ。  もうすぐ9時になろうとしている時間帯は、闊歩する人影はなく猫の世界を星たちが見守っている。  夜空が満月のペンダントを飾っていて、やけに月が美しくみえた。周りの星も光を演出していた。  澪菜が眠りについてから1ヶ月。  長い間朗らかな笑顔を見ていない歩には、1年くらいの時間に感じられていた。  甘い日々は、飴玉と似ている。  大して味あわない内に噛み砕いては次の味を口は欲する。  今の歩の中には、最愛の者の笑顔を見られないという苦味しかない。いくら早く飲み込もうとしても次はないのだ。  いや彼はまだ、飲み込もうとすらしていないのかも知れない。  それは未だに、現実を受け入れられていない証拠だ。  厳かな空気に包まれている高崎邸。  門を飾る花のアーチは夜もなお神秘的に見えて、今は月明かりと遊んでいるようだ。  月明かりの下には、いつ目覚めるかも分からないお姫様が眠る部屋の窓が見える。  そこを見つめる歩は願っていた。強い意志をやどし、どんな暗い夜も切り裂く流星に輝く心の強さが欲しいと。  今の状況を投げ出してしまおうかという思いに、決してまどわされない強さを。
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