序(甲)

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   それは、天にぽつんと空いた小さな穴のようであった。     穴の向こうには神か或いはその使いがいて、この大地を見下ろしているのではないだろうか。見守るために、いや、監視しているだけかも知れないけれど。    女はそんな想いに囚われながら、闇夜の満月を見上げていた。月の輪郭に手をかざして、人差し指の上に乗せながら。   「える、くぁみの、とろわ、しすかんと……」    そして、その指をぐるぐると廻しながら、お決まりの祝詞(のりと)を唱える。世界の全ての精霊への讃歌を。こうして満月の夜に自宅の屋根の上に寝そべって、零れ落ちそうな満天の星空を眺めることは、女の欠かせない習慣であった。    風ひとつ無い、穏やかな夜だった。しんと冷えた大気の重さが心地良い。   「……マテラ、支度が出来ましたよ」    下方から、女の字を呼ぶ者があった。老婆の声だ。   「……そる、もるしぉ、あでん」    祝詞を唱え終えると、女――マテラは半身を起こした。花びらのように屋根に散っていた長い黒髪がすっと集まり、次いで彼女の白い顔の周りに垂れる。    見渡せば、屋根の廻りには深遠たる森が広がっている。その合間の所々には小さな明かりや他の屋根が見え、この村の人々の息遣いが感じられる。    彼方に獣の鳴き声。狼だろう。   「お腹を空かせてる……はベタベタか。まあ、お前にも何かの精霊の恵みがありますように」    そう云うと、マテラは傍らの天窓の中に消えた。今のは少し図々しい物云いだったかも知れない、と思いながら。
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