序(甲)

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「ほんに静かな夜だこと」    湯気の立つ白い皿を鍋掴み越しに運びながら、腰を丸めた老婆が云った。辺りには、食欲をそそる芳ばしい香りが立ち込めている。   「こんな時間がずっと続けば良いのにね」    すると、老婆が皿を置いたテーブルの向こうに女が現れた。小さな木造2階建ての家では、住人の移動は建材の軋みですぐに分かる。マテラは階段を経て1階のリビングに至った。    動物由来の油脂を赤く燃やすランプが、食卓を柔らかく照らしている。それは茶色い松脂を擦り込んだ木目の周囲の壁と相まって、部屋全体を黄金色に見えさせていた。   その一部となったマテラは、薄いピンク色のシャツと、カーキのハーフパンツに身を包んでいる。ひとつしかない照明が作る濃い陰影が、彼女の華奢な躰つきを際立たせた。   「……戦争さえなければねぇ」    そう漏らしながら最後の皿を並べると、老婆はマテラを促し一緒に食卓についた。深い皺が年輪の如く刻み込まれ、痩けた頬と灰色の髪を持つが、それでも今なお、強さと優しさを宿す双眼を備えた女性だった。   「いただきます……あっ、お婆ちゃんあれ無いじゃん」    今夜のメニューはパンと玉葱のスープ、それからウインナーとすり潰した馬鈴薯であったが、肝心のスプーンが無い。   「おや、いけないね。今――こら」    老婆が慌てて立ち上がろうとしたその時、マテラが台所に向かって人差し指を伸ばした。屋根でそうしたように、廻す。
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