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第一夜
「貴女だけの人を見つけなさい」
それは亡きお母様の口癖だった。今や顔すら朧気だけど、その白い手がよく頭を撫でてくれたのは覚えている。
「お母様。私、行ってきます」
振り返った先に飾られた肖像画の中のお母様は優しく微笑んでいてくれる。まるでここだけ時を止めたように。
「お元気で」
私も真似するように微笑んだけれど、お母様のように美しくは笑えなかった。
「…お嬢様…そろそろお時間です」
静寂に満ちた空間に遠慮するような声がかかり、未だ微笑むお母様から目を背けた。視線の先には兎のぬいぐるみのような魔物が居心地悪そうに赤い眼をキョロキョロと忙しなく動かしている。これから人間界へと赴く私にお父様が付けてくれた連れの一匹。
感謝の気持ちを込めて微笑みながら、ふわふわの白い毛並みを撫でれば兎の姿をした魔物は嬉しそうに真っ赤な瞳を細めた。額に生えた鋭い角さえなければ、本当にただの兎に見える。
「行きましょう」
ルージュに染まった唇は笑みを形取り、名残惜しそうに再び兎の毛を一撫でする。
そして歩みだした。下界への、世界への入り口へと。
開けたままの窓から吹く風が白のレースカーテンを揺らしている。静寂に響くのは己の靴音だけ。
少女が歩を進めるたび、肩より長く美しい甘栗の髪が、さらりと流れる。
「行ってまいります」
ただ一度。
窓枠に手を掛けた一瞬だけ、部屋の奥にある亡き母様の肖像画へと微笑んだ。
瞬間、少女の背中にバサリと勢いよく音を立てて巨大な羽根が生える。
その美しく未だ幼さを残す容貌にはあまりにも不似合いな、真っ黒な翼だった。
彼女は「黒薔薇姫」。
吸血鬼でも希少価値のある純血種の姫に生まれ落ち、産声を発した時から定めが決められた娘。
しかしそれ故に鳥かごという屋敷の中、世界を何一つとして知らず大切に育てられた。だからこそ魔界でも稀な純粋無垢な心を持つ。
そんな彼女は自分の存在を知らぬ、膨大な情報が溢れて人間の欲に満ちた世界へと踏み出す。
期待と少しの不安を胸にして。
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