序章

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 「そろそろ来る頃だな……」  壁に掛けられた時計を見ながら、拓海は無意識に、そう呟いていた。  中川拓海(ナカガワ タクミ)は、学歴なし、貯金なし、取柄も特になしの、コンビニで働くフリーターだ。 今年の9月には26歳になる拓海は、特に容姿端麗とも言い難く、その短い髪に、くっきりとした寝癖をつけたまま、それを直そうともしない正直さえない男だ。 東京というのは、もっと夢のあるところだと思って田舎から上京して、そろそろ10年が経とうとしていたが、東京で拓海を待っていたのは、想像とは程遠い絶望と失望、そして……深い孤独の海だった。  そんな拓海だったが、最近ちょっとした楽しみが出来た。 それは、一日二回ほぼ毎日決まった時間に来店する、あるお客さんを接客することである。そのお客さんは、年齢は恐らく拓海と同じくらいの女性で、容姿、スタイルともに抜群に良く、最近テレビでも滅多に見ない位の美人だったが、表情筋が機能しているのか疑いたくなる程の無表情さで買い物をしていく。 拓海が、そのお客さんが来るのを楽しみにしているのは、美人だとか、スタイルが良いとか、そういう下心からではない。 そのお客さんは、とにかく気の遠くなる位の無表情な女性だったが、会計の時には必ず「ありがとう」と一言、とても無表情に言ってから店を出て行く、その一言が、拓海にはとても気持ちのこもった言葉に感じられるのだ。 拓海も最初からそう感じていた訳ではなかったが、彼女の行動が拓海にそう感じさせていった。 彼女は、例え新人が会計に戸惑い長く待たされる様になっても嫌な顔ひとつ見せずに、いつも通り「ありがとう」と言って店を出る。入り口で他のお客さんと出入りが重なってしまえば、相手の出入りを待ってから自分が出入りする。相手が老人や子供であればドアを開けて待ってあげたりする。 その無表情さと裏腹に、驚くほど細やかな気配り、優しさを発揮する彼女の行動を見るうちに彼女の「ありがとう」という言葉が、拓海の心に深く響くようになっていた。 とはいえ、それは拓海にとって、恋心などではなく、あくまで良いお客さん程度の気持ちだったし、店員とお客さんという関係しか望んではいなかった。
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