大人になって泣くなら、15の春に泣け

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② 子どもの学力がどうであれ、学力見合いの、安い公立高校が用意されているのが、本当の幸せなのである。 更に言うなら、学校とは勉強する所で、勉強とひと口に言っても、どの子も、万能ではない。何で勝負かけるかは、色々あって良いのである。 高校芸能課で漫才に打ち込む子がいて、高校飲食課で寿司を握る子がいて、体育課でかけっこ玉転がしに熱中しても良いのである。 私がスポーツ推薦を「スポーツ裏口」と罵るのは、普通科商業科に、かけっこ玉転がしで割り込もうとするからで、体育科が、かけっこ玉転がしの能力だけで生徒を選抜したって異論はない。 だが、逆に、座学しか取り柄のない子もいるのである。 そういう子の居場所を日教組は奪ったのである。 ガリ勉が罪であるかの教義を宗教的確信で布教したのである。 かけっこ玉転がしからオリた子が、源氏物語に熱中しようと、六法全書の丸暗記を初めようと、その子にも居場所があって、初めて「平等」なのである。 子供は知恵がない分、動物的嗅覚で敵味方をかぎ分ける。 ガリ勉タイプの子の目は、学校で死んでても、塾で輝く。 たとえ金儲けでも、そこには、東大か京大か、数学が出来ないだけなら早稲田か慶応か、「簿記会計」で逃げられるか、真剣に1の位の偏差値を気にかけてくれる先生がいて、我がことのように模試の成績を気にしてくれる仲間がいる。 この層は、学校で犯罪者扱いされ、公権力を前に「卒業までの辛抱だ」と、行きたくない学校の机に我が身を縛り付け、塾の授業を待つのである。 お前ら、今は玉転がしが出来る事でちやほやされてるが良い。 だが毎日も朝日も、高校球児を記者採用した例はない、と、覚めた目で彼らを見ている。 「野球部○○」と署名するだけで、高校の期末試験は通用しても、司法試験では通用しないことをガリ勉は知っていて、逆転の時を待つ。
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