人取りの悲劇

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 政宗は一旦1万3000の軍を二手に分け、8000の軍勢とともに連合軍迎撃のため岩角城を経由して本宮城に入城し、本陣を本宮城外の観音堂丘に進める。8000対3万。無謀な戦いであった。また家臣の鬼庭綱元を呼び出した。 「綱元、ちぃとキツいかも知れぬが、人知れずこの書状を安房の里見氏に届けよ。」 政宗は綱元に書状を持たせてすぐに発たせた。  天正13年11月17日、ついに伊達軍と連合軍は人取橋付近で激突した。戦いは終始伊達軍の劣勢で、人取橋を挟んで数週間に及ぶ防戦にを強いられた。  瀬戸川館に陣を布いていた政宗の従兄弟である伊達成実は挟撃を受けていた。 「くっ!全軍、退いてはならぬ!引いてはならぬぞ!」 成実を始め、家臣達も討死覚悟で奮闘した。
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