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ぼくは腕時計を見た。夜の九時。ちょうど駅構内のチャイムが流れ出した。ぼくは三時間あまり唄を歌っていた。九時には店じまいをしなくてはならない。それがこのM駅の駅長さんの保本さんとの約束。譜面台の前に置いた口を開いたギター・ケースの中には、二、三枚の千円札と百円硬貨が数枚はいっていた。「もう終わっちゃうのね」と常連客のサナエがしゃがんだ身体を起こして、学生服のスカートの埃を払いながら言った。ぼくは茶髪をした女子高生のサナエにうなずいて「また明日」とウインクする。サナエはまだ聞き足りないそぶりをしながらも、きっぱりと「おやすみ」と言って去っていった。千円札の一枚はまちがいなく彼女のカンパだ。 ぼくは相棒であるギターの弦を緩めて、店じまいをしはじめた。ぼくの相棒はマーティンのロジャー・マッギンのシグネチャー・モデル。三弦だけが複弦となっている七弦という珍しいギターだ。六弦ギターに十二弦の味わいを加味した不思議なサウンドをもっていることが嬉しい。定価で買うと七0万円を少し出る。ぼくはそれをマーティンの楽器の日本代理店である御茶ノ水のK楽器店で、二割引で購入することができたのだった。それでも多額の出費であることはまちがいない。ぼくは今でもやっている「グルーヴィ」のアルバイトでの一年間の稼ぎの大半をそれにあてたのだった。ぼくの大切な相棒。 ぼくは志のお札と小銭をジーンズの尻ポケットに無造作に突っこむと、ギターを肩ベルトで抱えながら、駅から五分ほどのところにある「グルーヴィ」に向かった。歌い終わって火照っていた身体が急速に冷えてくる。アスファルトの道にコンクリートの建物。この無機質なものに向かってぼくはひとり歌っていたこともあったのだ。まだ春とはいっても肌寒い三月初め。身体が熱いコーヒーを欲しがっていた。大通りを一本奥に入ったところに二階建てのログ・ハウスの建物がある。その建物だけが寒々したコンクリートの景観から、「別物よ」とばかりに自己主張している。二段上がった入口に「グルーヴィ」と木彫した看板が街灯に照らし出されている。今日二度目の来店。いつものことだ。
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