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その後しばらくコーヒーを飲みながら他愛のない話をしていた二人だったが、やがて五十嵐が腕時計に目を落とした。
「そろそろ会社に戻ります。どうも、ご馳走様でした」
「あ、いえ。お口に合ったかどうかわかりませんけど」
「いや、とてもおいしかったですよ。あんな家庭的な食事は久しぶりでした」
言いながら五十嵐は立ち上がり、柚子に軽く頭を下げた。
柚子は玄関先まで五十嵐を見送りに出る。
五十嵐は靴を履いてから柚子を振り返った。
「少し、安心しました」
「え?」
「独立してから社長は外食ばかりでしたので、これから柚子さんが食事を作ってくれるなら、安心です」
「………………」
何と返事をしていいかわからず、柚子は黙り込んだ。
五十嵐は笑顔を見せる。
「あんなに栄養バランスを考えて、作ってくれていましたからね」
「だって……冷蔵庫の中にお酒しか入ってなかったし……学業と仕事を両立させてるんなら、ちゃんと栄養とらないと、と思って……」
ボソボソと柚子が呟くのを聞き、五十嵐は優しく微笑んだ。
「柚子さんは、優しい人ですね」
「そ、そんなんじゃないです! ただ、日当に見合う働きはちゃんとしたいだけです!」
恥ずかしくなって否定すると、五十嵐はそれには何も言わずに、不意に思いついたように口を開いた。
「柚子さん」
「………はい」
「社長は……証は、とても難しい性格です。でもさっきも言った通り、決して柚子さんのことは嫌っていません。それを理解するまでに、また今日のように辛い思いをされるかもしれませんが……」
「………………」
「もし証のことで悩むことがあったら、前に渡した名刺に僕の携帯番号が書いてありますので、そちらに連絡してください」
柚子は驚いて顔を上げる。
「そ、そんな甘える訳には…」
「甘えているのはこちらです」
五十嵐は苦笑する。
「どうか、証をよろしくお願いします」
そう言って深く頭を下げ、五十嵐は家を出ていった。
まるで狐につままれたような気分で、柚子はしばらくその場にじっと立ち尽くしていた。
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