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永禄11年(1568年)3月上旬、鹿介らは、但馬国境を越えた。
但馬国は現在の兵庫県北部に位置し、畿内から、陸路で山陰地方に向かうには入口に当たる。
但馬国に入った鹿介らは、出石山系此隅山(このすみやま)にある山名氏の拠城、此隅山城を目指した。
尼子軍は総兵力40人、騎乗しているのは尼子勝久ただ一人で、残りの人数は、徒歩で従っている状態であった。
鹿介らが志しているのは、旧領回復である。
これは多分に理念的であって、この理念を守ることが、従軍する者前提条件となってしまう。
しかも支援者とて無く、全員が手弁当で但馬国に向かうのである。
食糧の供給でもあるならまだしも、こんな酔狂な集団に従おうというものなどあろうはずも無い。
いきおい、尼子の遺臣達のみで構成されることとなってしまう。
立原久綱が畿内を奔走しても、これだけの人数を集めるのが精一杯だったのだ。
一行は出石山を迂回しつつ此隅山城まで後1日という地点まで到達していた。
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