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[メインストーリー]オレンジの雨:起
概念を持たれることを、俺は酷く嫌っていた。――バスは乗り物だ。ピカソといえば画家だ。世の中は隔靴掻痒だ。
俺は裕福な家庭で育った。回りはきっと、俺よりも、俺の奥を見ていただろう。平生俺と関わりの薄い人間が、誕生日に近くなると媚びを売りにくる。
プレゼントがほしいなら、そう言えばいいのに、汚い人間ほど暗示をかけてくる。本当の友人とは何か、そんなことをぐだぐだ考える、悲しい自分がいた。
啓蟄の訪れの足音は、雨音によってかき消されている。
俺がふと窓を眺めて目にとまったのは、駐輪場で野良猫が雨宿りをしている姿。そこから春らしい一面を覗くことはできなかった。
春になると心機一転して、新しい筆記用具を揃えようとか、散髪にいこうとか、そういった衝動に駆られる。
俺は春そのものではなく、その衝動、もっと言えば、衝動から起る新鮮さが好きだった。
しかし、衝動は一向に姿を見せない。温くなった気もしないし、虫も見掛けない。春だというのに、春らしさがない。左手に握った鉛筆も、長く伸びた髪も……
この年になると、節分が何の変哲なく過ぎていき、暦でいわれる春が訪れているのに、心はいつまでも冬の憂鬱を引きずっている。
雨が好きだった幼い頃の自分が羨ましくなり、日々を深く考えずに過ごしていた、あの若々しい無邪気な心持ちを蘇したいという思いに駆られていた。
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