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雨垂れの音がこんなにも気をせかすのか。冷雨の寒さで身震いを起こすのか。
女はどちらもなく、ただ焦燥に駆られる。
雨音すら聞こえなくなる程の気の焦り――
前方の闇より殺気が感じられた。冗談ではなく、本当に殺されるらしい。
女はすみませんと言おうと口を開くが、言葉が喉に突っかかって出ない。
すの形に窄められた唇が次第に痙攣した。
言葉を無理矢理吐き出そうとするが、緊迫がそれを嗚咽に変える。そして、その嗚咽も窒息したように吐くことができない。
主人が何かを語りかけてきた。
「ひゃ、はい。何でしょう?」
女ははっと我を返すが、急に緊縛が解けたせいで返事が裏返る。
「それより、本題に入るわ。あなたにちょっとした御使いを頼みたいの」
静かな声だった。只ならぬ殺気もひしと消えていたのに女は驚きを隠せない。
主人は話を続けた。
「帝都の方で暴れてる子がいるわ。私には縁はないんだけど、氏族が深く関わってて私が責任を取ることになったの」
女は息詰りが残るのか咳払いをする。
「つまり、ソイツをとっちめればいいんですね。それで、その方とは?」
扇子を閉じたのだろう――パシッという良い響きの後、主人は言った。
「水神よ。私の予感だと、例の巫女が首を突っ込むでしょう」
例の巫女――と呟いて、女はほくそ笑む。やはり、この御方がただで何かをする訳がない。
「そちらに関わるのが本意ですか」
「ふふ、火水[カミ]ってところかしらね」
主人が意味深な単語を入れると、女は機転を効かして返す。
「加茂規清の『神は火水』ですか」
「そう、烏伝神道の。まあ、それら自体は余り事件に関係ないでしょうけど」
主人はそう言い切ると、立ち上がったようだ。暗々とした闇の向こうで蠢く影があったのを主人が動いたと女は解釈する。
「ちょっと待ちなさい」
影はそう催促すると、闇の更なる深くへと消えていった。足を擦る音は聞こえるが、それも忽ち小さくなって、闇の奥へ吸い込まれるように途絶えてしまう。
後に残るのは静寂であった。
ボトボトと、ボトボトと、降りしきる雨。それが無音の闇を静寂の風情へと彩らせる唯一の色だった。
雨に己を重ねながら女は思う。
――一体何処を目指して流れていくつもりなのだろうか?
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