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『徳川家康』
九月十五日の早朝より、九月十六日の明け方まで繰り広げられた、関ケ原の闘い。
武断派を率いた徳川家康はその戦で勝利を治め、見事天下統一を果たした。
あの日―
宇宙にまで突き進んだ暗黒卿・筒井定次を追って石田三成と共に空中要塞“出諏須太亜”へと進入した徳川家康であったが、その要塞から帰還したのは此の徳川家康一人であった。
その家康の表情から、文治派の面々は即座に、主である石田三成の討死を悟り、一同敗北を認めようとしたが然し―
『勝負なし』
そう高らかに宣言したのは他ならぬ徳川家康であった。
家康曰く『自身の存命は三成の功績』であり、また『三成はいずれ戻ってくる存在』であるが故に、『この合戦は一時休戦である』ということを明言したのであった。
その後家康は三成の居城である佐和城を預り、大阪に入った後は文治派所属の大名が持つ領地の管理を行うようになるが、その中における文治派の地位は程度守られたものだったと言う。
そして慶長八年三月二七日、家康は二条城にて朝廷より正式な将軍宣下を受け、江戸幕府を開くことになるが、しかし―
その中においても、やはり家康は『三成が戻るまでは自身の立場は絶対ではない』とし、家康自身、権力に溺れることなく、良く、日本を統治したと伝えられている。
徳川家康は―
固くなに、石田三成との約束を護ったのであった―。
享年、七十五歳。
徳川家康は最期の最期まで、森羅万象―
この地球環境を、誰よりも大切にしていたと、現代にまで伝えられているのであった―。
それを象徴する、この徳川家康が語ったとされる言葉―
『地球は、蒼かった』
この言葉に、徳川家康の想いが全て込められていると云っても過言ではないだろう。
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