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ダン、と一発の銃声が強制収容所に響き渡った。
銃口から漏れる余韻は清々しいまでの快晴に溶けて消える。
やがて元通りの静寂が辺りを包もうとも引き金に手をかけた僕の指先は小刻みに震えていた。
荒い息を繰り返す僕は自身が今し方殺したばかりの一方的に愛していた彼女から目が離せない。
胸からじわりじわりと滲み広がり純白のワンピースを染め上げる血は薔薇のような深い紅色で、より一層麗しき彼女を引き立たせる。
「オイ、ユダヤ人ども! 言うことを聞かなければこうだ。肝に銘じておけ!」
僕の隣の同僚はそう声高に吠えた。
彼女は一流のバイオリン奏者で、平和な時分は僕も彼女に勝手に恋い焦がれ、何度となく演奏会に足を運んだものだ。
ただユダヤ人という理由だけで彼女は人間としての権利を剥奪され、この強制収容所に虫けら同然のように放り込まれた。
唯一生きがいであったろう音楽さえも国際的な非難をかわすために強制収容所では芸術活動を奨励しているんだというイメージアップのように使われ、彼女はバイオリンを上官へと投げつけたのだ。
そして……命令は僕に下った。
殺せ、と。
半ば強引に握らされた拳銃。
殺さなければ自分がユダヤ人だと疑われて殺される。
ドイツ人将校の僕には端から選択肢は一つしか用意されてない。
我が身可愛さに引いた。
銃弾が身体に沈む直前、彼女は僕に嘲笑を向け、何かを呟いた。
“あなたもやっぱり人間ね”
唇の微かな動き具合からいうとそんな類の文句だった気がする。
……そうだ。
たいていの人間は最終的には自分が一番。
それが愛した人であっても、だ。
「……ハッ、いうことを聞けばいいものを。馬鹿な女だ。オイ、コイツを処分しておけ」
そう薄く笑って吐き捨てた上官の物言いに憤怒が逆流し、再び僕の拳銃が火を吹いた。
上官の頭に一発。
そして僕の頭に一発。
死んでも僕は彼女に想いを伝えることは叶わないだろう。
いや、想いを伝えたいと願うこと自体おこがましいのかもしれない。
だって僕はきっと地獄に堕ちるから。
でも、もし、こんな僕でも願うことが許されるのなら来世では彼女に想いが伝えられますように。
そして今度こそ愛する人を命を賭けて護れますように。
そんな身勝手な願いを頭の隅に描いて僕は深い眠りについた。
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