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これは一体なにかしら。
この、熱すぎるほどの感情は。
戦場のようだわ、と思った。
戦場など、経験したことはない。けれどわたしはこれまでにないほどにそれを感じていた。命のやり取りをしている。その感覚が。
男はカッターを下ろしたがとりあげるような真似はしなかったし、わたしの手首をひねりあげるような真似もせず、静かに手を離すとゆっくりと跪いた。
それは土下座のかたちだ。
「たのんます。おれはまだ死にたくない。死にたくないんだよ」
懇願にしてはやたらと熱い、決意表明のような重みだわ。
制服を着たわたしという女に向かって土下座をする、明らかにガラの悪い大きな体躯の男。これはなにかしら。
そしてそれを間抜けな顔をして、さっさと逃げればいいものを、舌を切られた中年の男がほうけて見ていた。口からだらだらと血を流して。
わたしは静かに、けれどどうしようもないほどの恐怖にあてられていた。
男はそれまで纏っていた下衆で愚かで低脳な空気を一変させていた。不真面目に、こんな路地でカツアゲなんかをするような男ではなくなっていた。
めまいがするほどの、強烈な死のにおい。雨宮さんが醸し出す、哀愁のような死の気配ではない。
生きたいと本気で渇望する男の、熱い熱い死のにおいだった。
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