畏怖と尊敬と嫌悪

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結局、わたしは男が落ち着くまで動けなかった。 ここで見捨てることは、逃げ出すことになると思ったから。逃げるのは、癪だもの。 どれくらいそうしていたか、男は深くため息をついて地べたに尻をつけ、天を仰ぐように塀にもたれた。異様な光景に、視線は絶えない。 「死ぬかと思ったー」 よくこの言葉は耳にするけれど、男の言葉になると奇妙なほどにおそろしかった。軽々しく言っているからこそ、なおさら。 「死ねばよかったのよ」 「はは。殺してえ」 毒づいた言葉に、男は毒で返してきた。 「それで、何の用。手短に話して。わたしはあなたが死のうと生きようと関係ないわよ」 「ご丁寧に待っといてよく言うぜ。あんた、友達いないだろ」 よ、と声をあげて男が立ち上がる。 「友達、ね。大嫌いなことばだわ」 「髪がこのへんで、丁寧な女言葉の、舌を切るやつ」 男は身振りで胸辺りーーわたしの髪の長さを再現しながら言った。わたしの言葉は無視なのね。忌々しい。 「っていったら、みんな篠原すずめだ、って言ってたぜ。あんたどんだけ見境なく切ってんだよ、こえーな」 「こわいのなら近寄らなければ?あなたの舌を切らないという保証はないわよ」 「いや、あんたはおれのことは切らない」 多少、思い当たるところがあるために、わたしは思い切り顔をしかめた。見せしめにボールペンを握り、その膝に突き刺してやろうかと思った。 「あんたは確かに狂ってる。人殺しもやってもいいと思ってるんだろうけど。でもおれのことは切らない。さっき確信した」 「……」 黙って。さもなくば舌を切るわよ、と言いたかった。 「そんなあやふやなものを信じてわざわざ乗り込んできたのだとしたら、とんだおバカさんね」 男はそこでなぜか満足げに笑った。なにがおかしいのか。なにが楽しいのか。腹立たしいことこのうえない。 顔には汗をうかべ、顔色も心なしか悪い。だというのになぜそんな顔ができるのか、心底謎だわ。
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