畏怖と尊敬と嫌悪

8/19
前へ
/52ページ
次へ
「つまり無駄って言いたいのかよ」 「よかったわ、猿に話が通じるようで」 男はむくれた。背が高く柄の悪い男がそれをすると、不気味で気色悪いものだわ。 あんたはおれを切らない、と自信満々に言っていたわりに、強硬手段に打って出ないところをみるとまだ確証はないようね。 「俺は引き下がらんぞ」 頑なにむっとした男にため息をがまんできずにこぼした。 「あきれた。死にたくないといいながら、あなた、死がこわくないのね」 「それはあんたが死をもたらすって認めることになるけど!」 男はやけに嬉しそうにいった。つかめない男。非常にやりにくいことこのうえない。 「あなたがそうだというなら、あなたの中ではそうなのでしょう。それがわたしにとって真実がどうかは、あなたには関係ないことよね」 「死がこわくない人間なんかいるのかよ」 「……いるわよ」 すぐさま浮かんだのは雨宮さんの顔だ。あのひとは、生かされている。なにに生かされているのかは知らないけれど。 「いや、あんたは死がこわい以前に、もっと単純なものをこわがってるだろ」 「わたしが?なにをこわがっているというの」 「他人」 「他人?こわくないわよ、そんなもの」 「あんたはこわいんだよ、他人が。だからわざと遠ざけてる」 それは、そうだわ。 そう思い続けてきた。 それが賢い選択だと思ったから。信じたところで、助けを待っていたところで、人はうそをつき、裏切り、他者を見下して、味方ごっこを繰り返す。それは野生で言う食物連鎖のようなもので、わたしはかつて食い荒らされるがわだった。 裏切られ、見下され、ストレスのはけ口や愉悦の対象として踏みにじられてきた。 猛獣、という言葉の意味がようやく理解できたわ。わたしはくだらない小競り合いから抜けるために、逸脱した強者であることを選んだ。 なるほど、猛獣ね。言い得て妙と、このことかしら。 「それがなに?」 否定もせずにいうと、男は肩透かしを食らったように狼狽えた。馬鹿馬鹿しい。なにを論破しようとしていたのか知らないけれど、猿に負けるほど愚かではないわ。
/52ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加