《五十話》二人での外食

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 じっと動けずにいると、視界の端にいた男の人の姿が消えた。 薫子さんが消えていった空間から視線を外すのは怖かったけど、いきなり消え去った男の人も気になったから片目だけ動かして探したけれど見つけられなかった。  帰ったのかなと思っていると、思いがけない場所から声が聞こえてきた。 それは下からだった。 「お約束を反故にしてしまい、申し訳ございませんっ」  くぐもった声に状況が読めず、諦めて声のしたところへと視線を向けた。  足下にはカーペットに頭をこすりつけた男の人がいた。  なんでこの人、こんな格好をしているの? 「……土下座なんてされても困るし、そんなものはいらない。土下座をするくらいならしっかり監視しておけ」  圭季は冷たい声でそれだけ告げると、きびすを返して玄関へと向かおうとした。  え……ちょ、ちょっと待って?  せっかく久しぶりに二人きりでの外食なのに、帰っちゃうの?  ひっぱられそうになったからあたしは踏ん張って拒否をした。  あたしの抵抗に圭季は不機嫌な表情を向けてきたけど、あたしはこの日を楽しみにしていたのよ? あんな妨害に負けるものですかっ! 「けーきっ」  震えは止まっていなかったし、腕に力は入らないし、ろれつも回っていなかったけど、あたしは必死に圭季を引き留めた。 「やだっ、帰りたくないっ」  今日を逃したら次がいつかなんて分からない。 今まで以上に警戒して、もうこんな日は来ないかもしれない。  子どもみたいにわがままを言っている自覚はあった。  ううん、あたしは子どもの時、まったくとは言わないけれどわがままを言った覚えがない。 だからあたしがはっきりと覚えている限りでは初めてのわがままだと思う。 「…………」  圭季はかなり険しい表情であたしを見下ろしていた。 あたしは涙が浮かびそうになるのを必死になって我慢して圭季を見つめた。  圭季はしばらくあたしを見つめた後、ふっと表情を緩めた。 「……分かった」  諦めたような声音にあたしは圭季の腕にとりすがった。 「わがままを言って、ごめんなさい」 「わがままなのはおれの方だ」  圭季はそう言うと、あたしの手を取って中へと足を向けた。 【つづく】
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