1909年千之助0~10歳

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    母の死後、暮らし向きは更に目に見えて悪くなった。 唯一の収入であった母の実家からの仕送りが途絶えたからだ。 曲がり形にも母の実家にとってもわたしは孫だが、それ以上に外城田家との繋がりを疎んだ。 わたしのことは見て見ぬ振りで、絶縁された。 貧困の末、とうとうまだ3つだった妹も何処かへ養子へやられてしまった。 それでも父からは、嫡子として、只、優美に生きろと風雅に生きろとそれだけを教えられ、わたしは毎日を美しいものだけに囲まれて過ごした。 屋敷から出る事はほとんど許されず、華族の子弟が通う学習院にすら行っていなかった。 父の現実を直視しない生き方もここまでくると大した物だとすら思える。 お陰で、わたしは 家の中での我が身の不幸を薄らぼんやりとは理解していたが、心を痛めた事は無かった。 浄瑠璃や押絵で語られる煌びやかな心中話の方がよほど不幸で心持ちを痛めた。 とうとう父が死んだ。 急な病。 父なりに気苦労があったのかもしれない。 弱味は内に押し込めて今生、最期まで見せる事は無かったが。 父が守ろうとしてきた御家はあっさりと取り潰しと決まった。 感慨など、無かった。 父は遺産等は一切残さなかったが、最後に奇妙な遺言だけ残した。 「十番町の三本辻に行きなさい。」 そう言い残して父は死んだ。 聞いた事の無い地名と辻。 どうでも良かった。 その日、何処の誰だとも知らない女に、手を引かれ、家を出た。 綺羅として、はりぼてだった外城田家との今生の別れだと云うのに、私はそんな事には微塵も興味無かった。 ただ、その女の薄紫の着物が夜風に揺れ、歩く度に着物に染められた桔梗が歪む事ばかり気になった。 醜い萠黄色した巨大な三日月が、手を引く女とわたしを悠然と見下していた。 その女、のちの義母朝子(ともこ)。 笹川義一郎の妻。 わたしは笹川義一郎の養子になった。    
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