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その頃 江戸城西の丸では、家斉の生母・慈徳院が、まだ幼い将軍世子・家慶と、その母・お楽の方のもとを訪れていた。
「お楽殿。家慶様におかれましては、有栖川宮家の姫君・喬子様とのご婚約が首尾良う調いました由、まずはお喜び申し上げまする」
「有難う存じます」
西の丸では、家慶の正室として有栖川宮家の息女・楽宮喬子(さざのみやたかこ)が内定し、入輿(じゅよ)する運びとなっていた。
慈徳院は満足そうにお楽に笑いかける。
「なれど、宜しいのでございましょうか? 御台様や、ご長子の竹千代君をお生みあそばされたお満の方様を差し置いて、私が時期将軍の生母と仰がれるなど…」
お楽が俯きがちに言うと、慈徳院は高笑いした。
「ほほほ、何を申しておられる。長子・竹千代君はとうにお亡くなりになられ、
御台様はそのお立場故に御側室方がお生みになられた全ての御子のご養母となっておられる。
今更そなたに怨み事を申す者など、誰もおりますまい」
慈徳院は言うが、お楽はまだ安堵出来ない。
「確かにそうではございますけれど、御台様からの冷たき視線はやはり犇々と感じます…。
申すも恐れ多き事ながら、上様におかれましてはあのご気性。
多くの御側室をお持ちでありながら、そのお一人、お一人にご寵愛を注がれる御方ではございませぬ」
「それ故、そなたが明輩から怨みを買うのは必至という事か」
慈徳院が呟くと、お楽は軽く頷いた。
すると慈徳院はお付き御中臈の浜岡を呼びつけ
「明日は御台様と茶の湯の会であったな?」
と伺う。
浜岡が「左様にございます」と答えると、慈徳院は何やら良い案を思いついたのか、口の両端をつり上げた。
「良い機会じゃ。そなた様の立場を確実なものにする為にも、わらわからあの高飛車な嫁御に一言申して進ぜましょう」
控え目なお楽は、あまり事が大きくならぬよう案じていた。
翌日、江戸城内の美しい庭園で茶の湯の会が催された。
茂子付きの女中達と、慈徳院付きの女中らが集まり、それぞれ隣の者へ茶を点てている。
雛壇の上には茂子と慈徳院が横並びして、端然と座っていた。
「御台様…本日はそなた様に一つ、お願い致したい事がございます」
お付きの浜岡が点てた茶を啜りながら、慈徳院が話を切り出した。
「上様のお世継ぎであらせられる家慶様のご養育から、そろそろ手を引かれては如何です?」
「──何と」

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