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埃を深く積み上げ、淡い紅は元来の彩りよりも幾らか褪せていると感じさせるスリッパ。
それは、市街の中心部に在りながら、人を寄せ付けようとしない雰囲気を漂わせる洋館の入り口に、綺麗に揃えられていた。
無機物でありながら、長年愛用してくれていた主人に感謝の念を抱く。
彼にとっては、主人と過ごせる事だけが至上の悦びだったのだろう。
主人以外の人間を知らない。
自分には主人だけがいればいい。
彼がその境地に至るまでに、そう時間はかからなかった事だろう。
しかし、
「行ってきます」
この言葉を最期に聞いたのはいつだったか。彼は待ち続けていた。
館の主人が帰らぬ人となって、早三十年。
何者の干渉も拒み続ける洋館は、当時と変わらぬ姿のままだった。
そして、市街にはその洋館に関する一つの噂がある。
暗い時間に誰もいない筈の洋館を覗くと、ある物が見える。
血のように暗い紅のスリッパが、僅かな光を放っている。
そしてその洋館に不用意に近く者は、二度と還って来ない。
この噂が真実か否かを知る者は、誰一人としていないという。
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