【序章】ノア

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 長く厳しかった冬が明けた。  ドイツの若き生物学者ノア・グルーネベルグは、待ちに待った雪解けを機に、森へと一歩その足を踏み込んだ。彼の専門は淡水生物の生態研究である。  ノアが森へ赴くことになったきっかけはこうだ。  昨年の秋深まる頃、お隣のクラッパー氏が突如としてノア宅の玄関口に現れた。曰く、趣味でドローンを購入したので、先日、試運転のために裏の森へと赴いた。その際に空撮した写真に、何やら妙なものが写っていることに彼の9歳の息子が気づいたらしい。取り立てて騒ぐほどでもないと思ったが、やはり気になるので生物学者であるノアに見てくれと言うのである。  ドローンからクラッパー氏の携帯電話に送られてきた写真はいささか不明瞭だった。写真の端には湖のようなものが写っている。  はて、とノアは首を傾げた。  両氏の住むコロニーの西側は、広大な国有の森が占拠している。シュヴァルツヴァルト山地。別名、黒い森だ。  ノアはいく度か大学の研究チームの一員として、その森で生態調査を行ったことがある。  森は深く広大なのでその全てを踏破することは不可能だ。しかし自宅付近の地形くらいならある程度は把握している。確かに、先日までこのような水たまりは存在しなかったはずだ。  見る限りそう大きくはない。水たまりというより、どちらかというと沼か泉のようである。  ノアは幼き頃から神童と崇められた優秀な頭脳で水量のおおよその概算を見積もった。深さは未知、大きさは3〜4m四方と目測しても、総水量はざっと20トンにも満たぬであろう。  この程度の泉であれば、時間さえかければ僕一人でも(さら)える。ノアはそう思った。
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