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『どうして日本人って、飛び降りるとき靴を脱いで揃えるんだろう』
今からそんな哲学的な疑問を解決する意味などないのに。
小野サトリはぼんやりそんなことを考えながら、三階に自分の部屋のあるマンションの屋上で靴を脱いだ。
家では玄関で脱ぎ散らかすばかりなのに、何となく最後だからと靴紐を結んでから、柵の手前で綺麗に揃えて置く。
普通なら此処で遺書を添えたいところが、友人も知人も少ないサトリには、宛先もない手紙を書くほど感傷はなかった。
さあ、空に飛び込む準備は出来た。
立ち上がったら。
独りきりだったはずの屋上に、
――いつの間にか、ギャラリーが居た。
「ね~?準備できたんでしょ。早く飛んじゃってよ」
俺の手間が省けるからね、と。左手前からだるそうに促す声。
まさか誰か居ると思っていなかったサトリは、声の方向へ恐る恐る視線を向ける。
声の主であろう、身体の線が華奢な黒髪の青年は。
サトリが超えようとしていた手すりの向こう側に腰掛けて、空に向かい膝の下をブラブラさせながら退屈そうに座っていた。
「おい――其処危ないぞ」
これから飛び降りようとしている男が、どうして他人の心配をする必要があるのだろう、とサトリは思う。
命など惜しくないはずが、目の前で青年が足をブラブラさせるたびに、堕ちるのではないかとハラハラして自分の腰が引けていることに気付いてしまう。
「何?――いいじゃん。あんたが堕ちるところ、一番近くで視ててあげるから。早くおいでよ」
振り向いた華奢な黒髪の青年は、柵の隙間からサトリに向かって手を差し伸べると。
――んふふっ
妖艶な、という言葉がぴったりくる含み笑いを寄越した。
どんな誘惑だよ?
バカバカしいと頭では理解しながら、何故かサトリの足は青年に向かって一歩踏み出す。
今や不思議と恐怖が薄れていて。
手すりに手をかけたら、黒髪の青年と目が合った。
正面から見たその顔は。
細面で、清楚で儚げ。
女性だったら間違いなく和風美人。
『――何処かで会ったか?なんて安い口説き文句かよ』
己にツッコミを入れながら、サトリが右足を手すりにかけたら。
バン!と後ろで搭屋のドアが手荒く開かれた音に、片足を上げて身体を傾けたままの姿勢で振り返る。
「――またアイツラかよ…」
苛立つような舌打ちがサトリの足元で聞こえた。
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