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一日目。
「菜月!」
不意に名前を呼ばれ慌てて後を振り返ると。
そこに泣きそうな顔をした男が立っていた。
ロマンスグレーとでもよんだ方がよいであろうか。
もう若くはなく。
かと言っておじいさんと呼べるほど歳をとっていない。
その彼が。
視点の合わない目で。
あたしを探して病室を抜け出してきていた。
あたしは直ぐさま彼に寄り添う。
「駄目よ、和幸さん。」
きちんと寝ていないと。
その言葉を。
彼の唇が奪った。
白い清潔な病院の壁とリノリウムの灰緑の床。
和幸さんのスリッパがキュッと音をたてる。
「何故私から離れる!」
苛立ったようにかけられる言葉。
あたしの中の‘菜月’がパクンと軽い音をたてる。
あたしはそっと。
和幸さんの大きな体に腕を回した。
「花瓶の水を取り替えるだけよ?」
「花なんか要らない。」
簡潔な答。
「君は私の側から離れないと言った!!」
だいの大人。
しかも老齢に差し掛かかろうとしている人の言葉ではない。
あたしはなるべく優しく彼を助け起こし、病室のベッドへと導いた。
彼はもうすぐ死ぬ。
病室のベッドに横たわり、彼は深く息をついた。
彼のベッドは所謂一般病室とは違う。
特別室というもの。
ここが病院であることを一瞬忘れそうになる。
部屋は彼の匂いに溢れていた。
「菜月は結局どこに決めたんだい?」
やっと落ち付きを取り戻した和幸さんが聞いた。
三ヶ月前、突然就職先を止めた菜月を心配してかけられた言葉。
彼の声はしっくりと耳に馴染みとても心地好い・・・らしい。
‘菜月’がそう言っている。
「まだ・・・どこも。迷ってるの。」
これは嘘。
あたしはどこにも行かない。
「だから私の所にすればいいと言っているのに。」
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