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――――突然だが。
『目を覚ました瞬間、命の危機が迫っていた』
なんて事はそうそうないと思っている。いや、思っていたと言ったほうがしっくり来る。
そんな息を呑むような急展開は映画などのエンターテイメント性が生み出すもの。
神々の怒りに触れるような事でもしない限り、平々凡々な『俺』というヒト科の存在には無縁の出来事なのは言うまでもない。
西暦2017年を北の大地のド田舎、今にも滅びそうな村の役場に高卒で就職した俺にとっては尚更のこと。
父親が統合地区の教育長だった事もあり、用意された田舎道をのんびりと、なんの摩擦もなく歩いた結果だった。
『地域観光課』
高齢化が進み数少ない若者は村を去り、人生の冒険へと都心に出向く。
その一方で村に残され暇を持て余した老人達の理不尽なクレームを受け付けるのが俺の主な仕事だった。
中には優しさに満ち溢れ、心温まる言葉を掛けてくれる老人達も当然のようにいるが、楽しいとはかけ離れた職場。
地域の町おこしや活性化を大義名分に村人の苦情を受け付け雑務をこなすだけの仕事。
雑務というのも水道管工事や収穫の手伝いだってなんだってやる。
あとはデスク横の窓に映る退屈そうな男の顔を見る事が俺に与えられた二択の職務。
新卒の俺にとって社会という可能性の塊、未知の世界は『つまらん』というたったひとつの言葉で片付いてしまうほど狭い世界だったわけだ。
『進学しとけば俺の人生違ったかなぁー』
そんなソフトネガティブな言葉が俺の口癖となっていた。
―――――が、たった今だ。
「ハァ……ハァ……!!」
――――蟹に追われている。
語弊はない。
カニって言ったらアレだろ。よく海に近い親戚が送ってきてくれて家族みんなが笑顔になる伝説級の食材…いや、海神の宝具とでもいうべきか。
そのまま食べてもいいし、脚をパキポキ折って身を吸い出し、頭を引っぺがしてミソを啜る度に満足感に満たされるのが世の常ってもんよ。
「くうぅー……口の中がコレを待ってたァ!」
なんつってサッポロビール片手に下品に貪る幸福的多脚甲殻生物のアレが常識だろう。
俺は未成年だが、ド田舎じゃ色々毛が生えそろって武勇伝の語りスキルとドヤ顔を覚えたら立派な成人みたいなもんだ。
だが今、俺はそんな食材に食材として追われている。
意味がわからない。
今の現状をもう少し掘り下げれば、カニと言っても『大きな』カニ。
大きなといっても友人におすそ分け程度のレベルじゃなく、発泡スチロールどころか実家のリビングにさえ収まりきらない巨大なカニだ。
正直「この世界にはまだこんな大きなカニが隠れていたんだね!」なんていう稚拙な歓喜の表現をしてみたかったのだが、
「……有り得ないだろ!!」
そんな悠長で喜ばしい無限の可能性がどーでもよくなってしまう程そのクソでかさは世界のどこにも隠れられるわけがない。
むしろ、この何処とも分からない廃墟みたいな街中を俺と一緒に駆け回っているわけで。
「畜生ッ!なんなんだよ……!!」
俺の頭は恐怖心によりひっ迫し、埃が舞う空気を肩で吸い込み続ける。
このスカスカの頭に搭載された常識という武器が何一つ役に立たない状況で荒れ果てたアスファルトを無我夢中で蹴り上げていた。
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