53人が本棚に入れています
本棚に追加
目の前には、自分の村があった。だが、それは大きな空間の歪みの中にあって、横にはトレアンとテレノスが立っている。兄がカレンに向かって何かを差し出した。
「早く病気を治してやれ」
「……こ、これ」
彼女は受け取りながらトレアンを見た。
「エル=シエル・ハーブの煎じ薬だよ。兄さんから君へのお土産」
テレノスが微笑みながら言って、カレンの右肩を軽く叩く。
「元気でね、カレン。機会があったら、また」
「うん」
二人がお互いに微笑むのを黙って眺めているトレアンの心に、何かが刺さった。自分を振り返って笑う彼女には、もう会えなくなる。
「家族って何人いるの?」
「両親と、妹のタチアナの四人よ。タチアナは水が好きで、私よりももっと賢くて、難しい術を使えるの」
名残惜しそうに新しい会話を始めるカレンとテレノス。また、心の何処かがちくりと痛んだ。自分が人の記憶を抜こうとしているから後ろめたいのだろう。トレアン自身はそう考えた。
「でも、ヴァリアントと対等に渡り合えるくらいの術を使う君もすごいと思うけど、俺は」
「まだまだ、よ……そろそろ行かなきゃ、村の皆がきっと私を探して大騒ぎしてるだろうから……トレアン」
呼ばれて、彼は今初めて気付いたかのようにはっと顔を上げた。知らず知らずのうちに下を向いていたらしい。
「薬、ありがとう」
テレノスも手当てありがとう、とカレンは言って、くるりと背を向けて歩いて行く。ちらりと弟を見れば、彼はこちらに注意を払っていない。トレアンは素早く唇を動かし、遠ざかっていく彼女の背中に向かって忘却の呪文を唱えた。
「――兄さん?」
テレノスがこっちを向いていた。
「何だ」
「カレン……とさ」
兄は、弟のつっかえたようなためらいの色を含む言葉を聞きながら、歪んだ空間を閉じた。違う家が立ち並び、馴らされた土地が広がる風景がすっと消滅する。
「また会えるかな」
トレアンは中途半端な溜め息をついた。
「……さあ、どうだろうな」
さて、愚弟のドラゴンの様子も見てやらねばならない。それと同時に、カレンがヴァリアントに負わせた傷の深刻さを思い出して、彼はほんの一瞬息を止め、考えた。
――私の術は意味がなかったのではないか、と。
最初のコメントを投稿しよう!