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便所で用を足してから洗面所に行くと、先客がいた。
小さな背中。
片口で切り揃えた、色素の薄いやわらかそうな髪。
顔を洗ったのだろうが、水で濡れて目が開けられないようで、洗面台の上においてあるタオルを手探りで探している。
黙って見ていたが、その手は空振ってばかりいるので、肩越しに手を伸ばしてタオルを取り、手渡した。
「おはよう、夢見」
「っ!」
夢見――私の一つ下の妹は、私が声をかけた途端、その細い肩を大きく震わせて息を詰まらせた。
怯えたみたいに壁に背を張り付けて、タオルを顔に押し当てる。
「夢見は、起きるの早いんだね」
声をかけるけど、返事は返ってこない。
これもいつものことなので、気にしないことにして洗面台の前に立った。
歯磨きと洗顔を終えて振り向くと、まだ夢見がいたので少し驚いた。
「夢見?」
名を呼ぶけど、夢見は下を向いたまま、目をあわせてはくれない。
しばらく待ったけどなにも口にしようとしないから、私は夢見に背を向けて洗面所から一歩踏み出した。
「――……とろい、から」
か細い声が、背中越しに届いた。
振り返らずに足だけ止めると、言葉は続く。
「わたし、とろい、から、早く起きて準備しないと、遅刻、しちゃうから……」
小さい上に途切れ途切れの掠れた声で、聞き取りづらかったけど、それは先程の私の言葉に対する返答だった。
一応、会話とよんでもよさそうな言葉のやり取り。
それが夢見と出来たのはいったいいつぶりだろうか。
お正月にあけましておめでとう、と言い合って以来かもしれない。
思わず振り向くと、夢見と一瞬だけ目が合った。
すぐにばっと勢いよく反らされてしまった。
だから私も言葉に詰まってしまい、前を向くと「……そっか」とだけ口にして、自室に戻った。
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