6月13日

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煕子(ひろこ)は、静かな部屋の中で縫い物をしながら、ふう、とため息をついた。 その原因は、今朝方早くに急な仕事で出て行った夫である。今日は、久しぶりに夫婦水入らずでとゆっくり過ごそうと約束していた日であった。 夫の上司である男は、大層有能であったが、同時に大層気まぐれな男であったから、夫も彼女自身も、急な呼び出しには慣れっこであったし、今は戦国の時代である。呼び止めるほどの我が侭が許されるはずも無かったし、残念だとこそ思えど、夫や彼の上司を恨むほど、煕子は子供ではなかった。 だが、納得はしているものの残念だと思う気持ちは残る。二人でのんびり過ごすなど、多忙な夫を持った彼女にとっては久しぶりな事。年甲斐もなく少女のようにはしゃいでいたし、何より今日は夫にゆっくりと休んで貰える事に安堵していた。 有能ではあるが生真面目で不器用な夫は、時折驚くほど疲れた顔をする時があるのだ。 少し針を持った手を休め、しばし彼女は過去の事を思い出す。 夫とは見合い結婚であった。しかし、見合いの後、病で顔に酷い痣が残り、煕子は結婚を断った。 しかし夫は、彼女の家を訪れると、「私の妻は煕子殿以外考えられません」ときっぱりと言い切ったのだ。 そのときの事を思い出すと、今でも彼女の胸には、暖かい物が宿る。 少しだけ口元に笑みをにじませると、再び彼女は縫い物を始める。 今煕子が出来る事は、帰ってきた夫が心地よく休めるよう、家の雑務を一つでも減らしておく事である。 ああ、あなた、早く帰って来て下さいな。 床の間に活けられた、明智家の家紋にもなっている桔梗の花に、彼女は生真面目で口下手で世渡り下手な、愛しい夫の姿を重ねて、ひっそりと願った。
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