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今の世、「新撰組といえば」と、問われれば、多くの方が浮かべるだろう、浅葱色に入山形を白で染め抜いた、あの羽織。
いやしかし、財政に余裕がないだろう彼らが何故羽織など揃えられたのか。
一八六三年四月二日、待てども待てども会津藩からの支給がなくついに頭に来た芹沢を筆頭に、局長、山南を除く副長、沖田、永倉、芹沢派の野口らが、大阪へ出たついでにとある場所へ。
壬生浪士組の金策をどうにかするため、『平野屋』という店からなんと百から二百両もの大金をせしめたのだ。
時に、実はこの資金借用、ちょいと悪どい方法を使ったという説があるのだが、とりあえずそれについは何とも言わないでおこうと思う。
ちなみに幸い、この騒ぎで会津藩も浪士組を思い出してくれたのだから、平野屋には申し訳ないが、助かったと言ってもいいかもしれない。
勿論、金は会津藩から返されている。
前触れは長くなったが、財政難ともいえる新撰組が羽織なんて作れたのは、その金から、羽織作成資金が出てきたためだった。
実は同年、三月二十五日以前にも、『菱屋』という呉服屋で浪士組は局長と副長の五人分、公用に揃いの羽織を受け取ってはいるのだが、それにはとある特徴が一つあり、その羽織の裏が「段染め」の、だんだら染め。
だんだら染めには2つある。
段と、入山形。
新撰組まず最初の『だんだら羽織』はその時作られたがこれがまた酷く不評。
会津藩士の本多四郎と壬生狂言を鑑賞する際に着たっきり、箪笥の底にしまわれてしまった。
山形羽織を考案したのは、芹沢だとも土方だとも言われている。
いずれにしてもこの羽織の山形模様、当時大人気だった赤穂浪士の歌舞伎、仮名手本忠臣蔵と極似していた。
袖に山形が三つ、裾に五つ。
土方や近藤、芹沢がその歌舞伎、もしくは赤穂浪士が好きだったのかもしれないし、その人気にあやかりたい気があったのかもしれなかった。
けれど残念ながら、その羽織はまたも酷い不評を食らうことになる。
なんといったって、浅葱色といえば真っ先に切腹を連想するし、柄がまた酷く目立ち品がない。
色も褪せるのだ。
山形羽織を嫌ったと言われている沖田は、二十歳と少しの青年として少し恥ずかしいと思う点があったのだろう。
夏場以外は、滅多に着られることはなかった。
けれど、あの羽織にはその者の志と呼べるものが、気持ちの全てが詰まっていたのではないか、と考える……。
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