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十分な水分を得て潤っていた筈の喉はもうカラカラに乾いて、張りついているような錯覚まで覚える。
水を求めて、唾がじわり、僅かに咥内に浮かび始める。
しかし、彼にとってそんな事、切り捨ててよい程どうでもいいことであるのは、間違いない。
今己がやった行為に、むしろ自分の方がついていってないのではないか、ただ頭は雪を偽る程真っ白で、どうしようもなく膝をつく。
それでも、無意識的な意地でもあるかもしれない。
たった今人の血で濡らしてしまった刀だけは、離さないでいた。
それに気づいてしまえば、もうすっかり、農民の子としての自分は死んでいて、一人の武士紛いが生きているのだと思わされる。
いや、意地だなんて格好いい事を言いはしたが、それこそ喉ではないが、右手が糊でも塗ったかと思うほど刀に張りついて離れない。
何と言えばいいのだか、分からないが。
その刀を離さぬ右手には、確かに自分が何を斬ったのか、その時の感覚が如何様なものだったのかと。
鮮明に。
(その男がどのような声をしていたか
その男がどのような着物を着ていたか
その男がどのような肉であったのか
その男が、どのような目で斬られたのか
その男が。)
それを否応なしに思い出し、嘉一は鬱陶しいほどに自分を襲う吐き気を隠す術も知らないで、ただその感触を消したいと願う。
けれど刀は離せない。
それでもその問題が解決するはずもなく、ただ今何よりも声をかけて欲しかった人ではなくて、高めの優しい声とが足音と共に近づいてくるの気づかされる。
その声が、その現状を打破するきっかけになるのに何よりも安心したのであって、嘉一は心底感謝した。
けれど、声をかけられるということを、酷く恐れたのも、また事実である。
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