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「…嘉一、少しいいか」
「なに?」
道場の枚羅戸に手をかけた時、ぴたりと斎藤の手が動きを止めた。
振り返り靴脱石から降りて、しかりと意思の強そうな黒い目を不審がる泉の目へと合わせたかと思うと、ぴしゃりと言った。
「厠へ行く
先に入っていてくれ」
「…………………」
遠回しさも遠慮もなにもなくはっきりと口に出した斎藤に、泉は少々じとりとした目を向けながらも分かった、と言葉を返す。
泉の了承を確認するなりすたすたと姿勢良く歩いていく斎藤の後ろ姿を見送って、 泉は先ほど斎藤が開けようとした戸へと手をかけた。
がらり、と立て付けの悪そうな引っ掛かるような小さな音を立てて、戸が横へと開く。
「りゃぁあ――――ッ!!」
「ッ!」
開けた途端、熱気が泉を襲った。
しかも中を覗き込んでみれば、
(うっ、暑苦しいな…!
こんな中で稽古してるし…茹で蛸にでもなるんじゃないか…?)
些か甲高い掛け声の男と、少しばかり肉付きの良さげな男が立ち会っている。
正に一触即発で、とてもじゃないが声をかけられる空気ではない。
道場内を見回すと、上座近くに背の高い男が一人背中を壁に預けていた。
見学の旨を知らせるべきだと考えた泉は、とりあえずその男に声をかけようと道場の壁づたいに近づいてゆく。
「あのぉ、すいません」
「おぉ、お前さん希望者か?
若いなぁ、よしよし、名前は?」
「え?名前?あ、舟山嘉一…」
「(ん?どこかで聞いたような…)
はいよ、ふなやまかいち…な」
足元からいろいろ取り上げすらすらと平仮名で帳簿に名前を書かれたのに気づき、泉ははっとしたように帳簿を見ていた顔を上げる。
両手をわたわたと上下左右に慌て動かしながら、男の作業を止めようとする。
わざわざ女に化けてまで入隊を取り付けたのに、これ以上の面倒はごめんだ。
「あっいや、あの俺は違…」
「よし完了!
それじゃあ、あの二人の試合終わったら呼ぶからよ
好きなように待ってな」
「あ、はい、ありがとうございま…いやだから違っ…!」
誤解を解こうにも、男は軽い足取りでどこぞへと消えていってしまう。
しかも、前述したように、男二人は声をかけられる空気ではない。
こうなったら、
(…一…早く帰ってこい…いや、帰ってきてください…!)
まぁ当然、そんな願いも虚しく。
「よぉしそこの坊主!試合だ試合!」
「えぇー…」
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