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貴方様は昔はよく水無瀬に狩をしに通いなさったものだ…
ザクリザクリと雪を踏む音だけが辺りに響く
水無瀬から京の庵に帰ってからは中々帰らせて貰えなかったな
あの方は私の言葉に全く耳を貸さないくせに酒をついでは何かとつけて私に贈り物を与えてくる
持って帰るこっちの身にもなれってんだ
何度思ったか計り知れない
特にあの弥生の時は酷かった
歌を詠んでは抗議したがあの野……ゴホンあの方は完全無視で酒を飲みつづけ勝手に潰れた
後始末がこれまた大変で
溜息をつくと白い靄が出来た
あの方のいる庵までまだ距離があるらしい
辺りは汚れのない真っ白な雪に覆われていた
そうそう、そして翌日出てみると二日酔いで部屋に篭ってらっしゃる
全く懲りないというか
再び零れた溜息
こんな事を何度繰り返した事か
しかし他人なら絶対に放棄しそうな事も私にとって全く苦ではなかったのは、やはりあの方を愛していたからなのだろうか
あの方に尽くし
あの方に仕え
あの方の側で侍る
あの方が私を呼ぶだけで心が満たされる
自分でも、もう駄目だと思うくらい私はあの方に依存している僕は麻薬のようだとあの方は言ったが全くその通りだ
しかしあの方は急に出家をした
次期天皇として申し分ない程の実力を持つあの方は自ら望んでその機会を捨てた
そして私の側から消えた
私を中毒にしたまま無責任にあの方は消えた
それから一年
あの方の居場所を知った
比叡山の小野に居ると
雪を踏みながら想うのはあの方への愛の言葉ではなく恨みつらみである
何故勝手に出家したか
何故私を置いて消えたか
言いたい事は沢山ある
そして見えて来た庵
私はその戸を迷う事なく開けた
「やぁ、翁」
「惟、喬…様」
何度も止めろと言った『翁』の愛称で私を呼ぶあの方
会ったらまず雪をかけてやろうと思っていた私の企みは
あの方のその姿に忘却の彼方へと消えてしまった
水無瀬で狩をしていた頃の無邪気な笑みは消え只、哀愁の笑みでこちらを振り向いたあの方
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