- 序章 -

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三月も中旬となれば、春の香りを運ぶやわらかな風と暖かい日差しのおかげで、おおむねコートなどの厚めの上着は必要なくなってくる。 だが、その日は生憎と朝から雨が降り続いていて日中でも肌寒かった。 夜になって雨脚は弱まったものの、濡れた体の体温を奪うには十分なほど気温は低い。 (でも、凍えて死んでしまうほどの寒さじゃないな…。) そう思いながらもやはり寒いのだろう、自分で自分を抱きすくめるように身を縮める。 にぎやかな繁華街から一本外れた裏路地。 その喧騒の届くぎりぎりの場所で、濡れたアスファルトの上に両足を投げ出して座り込んでいる影が呻く。 (この寒さはきっと、血を失いすぎたせいだ。) すでに痛みの麻痺してきた傷跡はわき腹から背中にかけて貫通していた。 幸いというか …不幸というべきか、臓器に致命的な損傷を与えてはいない。 そして、その傷を負った際にもほぼ条件反射的に止血の応急手当もしてしまっていた。 それでも完全に血を止めるには至っておらず、じくじくと痛む傷跡からは生命の源がゆっくりとあふれ出している。 (いっそこのまま死んでしまえれば楽なのに…。) そう思うと、寒さに抵抗するように自分を抱きしめていた両腕から力が抜け、壁にもたれかかって座っている身体全体の筋肉が弛緩していく。 (どうせもう、彼女はいないんだ…。このまま彼女の元へ逝くのも悪くないな…。) ふいに涙があふれ出す。 (いや、きっと彼女は天国へ行くんだろう。たくさんの命を奪った俺は、彼女のいるところへは行けないな。) それにとも思う。 最愛の人の命が失われたのは自分の不運なミスのせいだ。 不運を神様のせいにして呪いの言葉を吐いた自分は天国には入れてもらえないだろうと苦笑をもらす。 ゆっくりと、ずっと閉じたままだった瞳をあける。 降り続ける雨と、奥からとめどなくあふれる涙でぼやけた視界に、いつからそこにいたのか子供のような人影が写った。 跳ね返る雨粒が、大きな翼を広げ、大剣を掲げた輪郭を形作る。 (…てん、し? …いや、…しにが、み?) それが、自称天使を名乗る『アナト』との出会いだった。
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