遺書

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 なぜ今このとき齢三十をいくらか過ぎた私が死のうというのかと、惑うものもいるかもしれぬ。  それでも、私自身はいつ死んでも不都合などありはしなかったのだ。  しかしながら、自らの手で死ぬということは、なかなかどうして面倒くさいことである。なかなか踏ん切りがつかぬとて仕方なかろう。  一つ、常々思ってきたことがある。これはなにも私に限った事物ではあるまい。  私がまだ十六か十七かそこらであった頃、ある寺で坊主の説教をきいた。 “此の世に生をうけた意味を知り、その責務を全うせよ”  まるでかくいう責務云々が生まれる前から決められているかのような口振りである。  少なくとも私は望んで生まれてきたわけではない。  ここで勘違いしないでいただきいことがある。これは決して生まれて来たくなかったという意味ではないということだ。  物心がついてからふと気がつくと、私は生きていたのだ。おそらくは皆がそうであろう。  そして青年時代になれば程なくして、なぜ私は生きているのであろう、という疑問にたどり着くのだ。
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