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目を閉じ、廊下を歩く。
窓のないこの廊下に外の光が入ることはない。そのためここでは視覚はあまり頼りにならない。
道すがら私は戯れにレディを気取ってみる。背筋をピンと伸ばし、闇の匂いに目を細める。はた目にはさながらティーカップからたちのぼる香りを楽しんでいるようにもみえるかもしれない。
そうしてこのまま闇の匂いをたどってゆけば、間もなく彼の棲む部屋の扉へたどり着く。
今の私はただのお茶くみにすぎないのかもしれない。だからきっと雇い主からすれば、私の過去の経歴なんてたぶん、抜け落ちた一本の髪の行方と同じくらいどうでもいいもの。
それでも暗闇の世界に生きてきた、人でなしの私を雇ってくださったのは、彼の父親だった。
神を憎んでいたはずの私は、彼の父親に神をみたのかもしれない。
この扉を初めて開いたあのとき、私の人として生きる道も同じく拓かれたのだ。
「深紅かい? 待っていたよ。新曲ができたんだ」
富野贋咲、大資産家富野う之助の息子。開けた扉の先に彼の声がする。怖いくらいに美しく、それなのに全く邪気のないそんな声。
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