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我が国を一言で言うと「平和」だ。紛争はなく、一部の地域を覗けば治安も良く、雨風を凌ぐだけに留まらない住居を持ち、飢えることもなく、着るものも不足することなく、一定の労働さえ勤めれば安心して暮らせるのだから。
そのことに感謝すべきかは別として、そのことを知る必要があって、そのことについて考えなくてはならない気がする。とりあえずわたしにおいていえば命題である。
国というのは社会おいて、個人から拡大して最大規模の単位である。個人、家系、町、県、国。
もちろん、個人において、個人が優先されるべきは当然であるけれども、その個人優先は他者との関係性を無視してはならない。他者から離れて自給自足の生活を望むであれば別だが、そんなこともないだろう。
生物として、生きることがこの国では容易である。それは個人の力ではなく、先人の努力とその集合である国、つまり国力の恩恵に他ならない。人の生命は限られてはいるけれども、国にはそうした個人の足跡が書物や、パソコンとしてのデータや、文化、芸術、技術として残っていく。古い形あるものは、経年によってやがて朽ちるけれども、それらはその時代を生きる人々によって記録され、引き継がれ、新たな形が創造されていく。
歴史的に見て、国の持つすべてのものは、ブルジョアジーからプロレタリアートへ伝わり、やがてプロレタリアートが自ら産み出す状態が生まれてくる。それは国という単位が世界を認識し、国内のサイクルが国際的なサイクルへと拡大したからで、我が国のプロレタリアートは国際的に見てプロレタリアートとはもはや言えない。
生活の豊かさはインフラの整備と、物質的な豊かさに下支えされていて、大衆も文化を育んでいく。そう考えると、大衆も物質や文化と同様に洗練されていくはずなのだけれど、生きることが容易になると、人は努力をやめて、堕落してしまうのだろうか。
昔の小説を読み、そのプロレタリアートと現代人の精神性が重なるのはなぜだろうか。インターネットは情報を世界的に共有し、それは一般化されている。けれども、情報は情報のままで、知識として一般化しないのは何故だろうか。
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