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知識とは情報と実感が結び付き、編集して産み出せる状態、その知識を現実の行動に合わせて結び付けたのが知恵とわたしは理解している。自分の知識と知恵と、他者のそれと、歴史的に存在するあらゆるものとを闘わせて、洗練したものを産み出す。けれども知識は物事の本質に迫らなければ得られない。
国というのはその国土に存在するすべてのものだ。記憶といっても言いかもしれない。そこには知識と知恵とが凝縮されている。わたしは国というものをそのように理解している。
経済的に豊かで、平和な日本という国において、なぜ大衆は本で描かれる大衆のままにあるのだろう。自給自足の生活は遥か後方の時代にあって、身の回りのものは他者の介在に依って産み出され、存在している。
国民は平和な世の中で義務を果たしながらも、個人の権利を最大限に享受し行為する。その権利と義務は国家というギャランティ(保証)で以て維持されているのであって、それは本来人間が持つ権利と謳いつつも国のギャランティがあってはじめてそれが現実のものとなることを忘れてはならないと思う。
これはわたしがナショナリストというわけではなくて、寧ろわたしはリバリタリアリ
ズム(無政府主義者)に近いけれども、そう思う。何故かと言えば、この国でなくても生きていけるとも思うし、わたしの都合に合わなければこの国を棄てても構わないとすら思うから。
ただ、日本という国が持つ文化や、そこに存在する国民、というより人々に愛着がないでもないわけで、昨年の3月11日の東北大震災という国難ともいえる状況において派生として考え、書きたいと思うようになった。
この派生を繋ぐ掛橋が何かといえば、現実的に拡大される個人の自由は国家のその理念と存在意義との結びつきを希薄なものにすると思うのだけれど、国難という個人の領域を遥かに超えた事象においては、個人は国家に頼らざるを得ず、その時に個人の限界を実感をもって知り、国家の役割というものを明確に認識して、国家の在り方について考えることが出来るとわたしは思うからだ。
震災に脅かされた生命の救済と、破綻した生活、それから復興が行われる際に出てくる諸問題は、緊急を要するものでありながら時間はどうやっても掛かってしまう。その緊急性というのは例えば5年10年という中に長いスパンの中でも存在するもので、その要点ごとに緊急性を持つのである。
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