歴史

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☆結成☆ 文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩の郷士・清河八郎の建策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。 翌文久3年(1863年)2月27日、集まった200名余りの浪士達は将軍上洛に先がけ、浪士組として一団を成し、中山道を西上する。浪士取締役には、松平主税之介、鵜殿鳩翁、窪田鎮克、山岡鉄舟、中条金之助、佐々木只三郎らが任じられた。 京に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が露見する。 浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。 これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護の為の京都残留を主張。 鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱退、殿内・家里は排斥され、同年3月、公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(「精忠浪士組」とも)を結成。 壬生村の八木邸や前川邸などを屯所とし、第一次の隊士募集を行う。 その結果36人余の集団となった壬生浪士組は、京都守護職松平容保(会津藩主)より、主に攘夷倒幕派浪士達による不逞行為の取り締まりと市中警護を任される。 同年8月に起きた八月十八日の政変に出動し、壬生浪士組はその働きを評価される。 そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。 なお、隊名は武家伝奏(当時は野宮定功と飛鳥井雅典)から賜ったという説と、松平容保から賜ったという2つの説がある。 後者の説は、会津藩主本陣の警護部隊名を容保からもらったという意である。
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