第1章

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「ごめん……あたし、帰る」  そういうなり、鞄を取り上げ足早にアトリエから出ていった彼女の背中を、僕はしばらくの間呆然と見送るより他なかった。  一分ほど後、ようやく気を取り直して正面のキャンバスに目を戻す。 (どうしたんだろ? そんなに気に入らなかったのかなあ……この絵が)  イーゼルに立てかけたキャンバスに、まだ色は塗られていない。  そこにあるのは未完成の下絵――木炭で薄く描かれた少女のデッサン画だった。  制服のブレザーを身にまとった、身長一五〇センチ少しの小柄な体格。ボブカットの髪に包まれた丸顔は、高校二年生にしてはやや幼い方か。  少女は椅子に腰掛け、横顔を窓の方に向けている。  遠くを見るようなその瞳は、空の色に移りゆく季節を感じているのか、それとも親しい誰かが来るのを待ちわびているのだろうか――。  絵のモデル、佐藤希(さとうのぞみ)は同じクラスの友人だが、もちろん恋人同士とかそんな関係ではない。僕が彼女と出会ったのがつい一月前、互いに口を利くようになってまだ半月と経っていなかった。  僕が生まれ育ち、高校時代までを過ごしたのは、N県の山間部に位置する辺鄙な地方都市だった。そんなわけで、夏休み明けに担任から「東京から女子の転校生が来る」と聞かされた時、クラス中が――特に男子生徒は――その噂で持ちきりになったものだ。  ところが大方の予想を裏切り、転校してきた佐藤希は容姿も性格も地味で控えめな少女だった。  携帯やブランドもののアクセサリーも持たず、服装や髪型のセンスも地元の女の子たちとさして変わりない。  最初の二週間が過ぎる頃、彼女の存在は「その他大勢」の女生徒たちの中に埋没してしまい、男どもの話題にのぼることもなくなった。  皮肉なことに、そんな彼女の平凡さが、却って僕の興味を惹きつけたのだ。
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