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この日、そいつは13頭立て11番人気での出走だった。
イレ込み癖があってパドックで体力を無駄に消耗してしまう典型的なタイプで、いつも首をせわしく上げ下げしては、耳を絞ったり目を剥いたりする事の多いそいつだったのだが、何故だかこの日は妙に落ち着いていた。
だがそれは実は落ち着いていたのではなく、考えようによっては疲れていたのかもしれなかった。
この一年近く、ほぼ休養無しの出ずっぱりだったからだ。二三週に一度は必ず出走していた。
そんな奴がこの日はただ厩務員に曳かれるままにゆっくりと周回を重ねていた。首を伸ばしパドックの脇にある花の匂いなど嗅ぎながらのんびりゆったり歩いている感じだった。
掛け声がかかりジョッキーが騎乗しても、イラつくでもなく焦れ込むでもなく、我感せずといった体で悠々と歩いていた。
「おい、そいつ気合い入ってへんで!」
「お前、他に乗る馬はおらんのか!」
客の空いたパドックでは下卑たヤジが腹の底にまでよく響く。
私はそいつの単勝馬券をまるで何かのおまじないであるかの様に握り締めていた。
11番人気、オッズにして90倍見当の5枠9番の馬券である。
何でそいつにあれほどまで肩入れしていたのか、自分でも今一つ分からない部分はあるが、ひょっとするとそれはそいつのレースぶりだったのかも知れない。
ゲートの出が悪くいつも後方から行く癖に、馬込みに割って入ってこれをこじ開け前に出ようという根性に致命的に欠けていた。
ただ流されるままに他馬に合わせて走り、前の馬がヘタって下がり始めると自分もお供するかの様にタレていく。それが自分によく似ている感じがしたのだろうか。
競争馬に自身を投影するなど、寺山修二の出来の悪い二番煎じに過ぎないのだが。
雨上がりの、雲が低く厚く垂れ込めた空の下、馬場へ入った13頭の出走馬達は次々に返し馬を始めた。
そいつもまた、黒鹿毛の馬体を翻してスタートゲートの方へと疾駆した。
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