後ろ姿、崩壊、芳香

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     風が凪ぐのに合わせて、丈の低い青々とした草葉が小波のようにゆらめいた。白い泡沫を弾かせながら、寄せては、寄せて。行き先のない小波は地平線へと消えていく。どこまでも広がる新緑の海に抱かれながら、彼は俯いて祈りを捧げるように瞼を閉じていた。風はまるで彼を包むように、穏やかに彼の輪郭をなぞっていく。その感触を全身で感じながら、彼はただ黙していた。  遥かに続く緑の草原。凛と突き抜ける青い空。そして孤独な彼。その世界はそれだけだった。  それは崩壊の上に成り立った究極虚無であり、見ることすら叶わない究極美。世に蔓延る穢れを浄化し、ありとあらゆる余剰物を排し尽くした果てに出来上がった唯一無二の美しい世界。彼はそこに在ることを許された。  そこには立ち並ぶビルもなく、ねじ曲げられた自然もない。遮蔽物の一切が存在しない世界で、風は駆け抜けていく。果てしない彼方から、彼のいる此方まで、幸せの芳香を届けに。彼は全身から染み入る幸福に酔いしれ、快楽の境地にて一人、静寂に佇む。彼が胸張り裂けるほどに焦がれ夢見た憧憬が、今ここにあるのだから。  彼は彼以外の存在を求めなかった。だからこそ世界が彼を受け入れたのか、彼がその世界を求めたのかは誰にも分からない。しかし、虚無は孤独なものであり、虚無は美しきものだからこそ、彼はその世界に在り続けることができたのだろう。  幸福な孤独とは果てない永遠に似ている。  揺らぐことのないそれがもし揺らぐとしたら、それはきっと孤独を不幸と思った時だろう。彼は閉じた瞼の裏でそう思った。    それから遥か先のことか、それともすぐ後のことかは誰も知らない。  しかしいつか、誰かが見たらしい彼の後ろ姿は、それはそれは小さなものだったという。  それ以来、彼の姿を見た者はいない。  
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