第一集

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井伊直弼 1815~1860 大老 彦根藩主 彦根藩主、井伊直中の一四男として生まれた。 部屋住みの苦労に耐えながら和歌や禅、槍術、居合術などを学ぶ。 与えられた屋敷を埋木舍(うもれぎのや)と名付けたのは自分の立場を皮肉る心境からだった。 長兄で藩主だった直亮の養嗣子となり、直亮の世子にあたる直元が偶然にも死亡し、続いて直亮が死去して三二歳で藩主の座につく。 ペリー来航時、「臨機応変の手段として積極的に交易を許すべきだ」と話している。 将軍家定の後継者問題で徳川斉昭、松平慶長ら一橋派は慶喜を擁立しようとしていたが、直弼は能力や年齢より血筋が重要と考え、紀州藩の家茂を将軍にするため南紀派を形成して一橋派に対抗する。 将軍家定の任命により大老に就任した直弼は1858年6月、日米修交条約を勅許なしで調印し、次いで家茂の将軍継嗣決定を発表する。 条約の強引な調印に反発した尊皇攘夷派の志士たちは、朝廷に働きかけ尊攘派公卿たちも幕府の態度に反発し、8月に戊午の密勅が下る。 直弼は、これを水戸藩及び尊攘派の陰謀とみなして弾圧に着手した。 安政の大獄である。 1860年3月3日、登城する直弼の駕籠が桜田門外にさしかかった時、一発の銃声が轟き、水戸藩士らによって直弼は首を落とされた。 桜田門外の変は天下の大老が暗殺されるという大事件であり幕府が崩壊に向かう序曲でもあった。image=354743938.jpg
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