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◇
「鼠くせぇな」
自室の襖の前に立った時、部屋の中から荒々しい男の声が聞こえてきた。私の身体が固まる。
「やっぱり鼠くせぇ。気に食わねぇなぁ」
これは由々しき事態だ。身の危険を感じた私は、咄嗟にお隣さんである先生の部屋へと逃げ込んだ。慌てていたためノックも忘れていきなり飛び込んでしまった。
それにも関わらず、先生は私の存在になど目もくれずに原稿用紙に万年筆を走らせていた。
「お仕事中に申し訳ありません」
「……んお? 公之介君じゃあないか。ゴメンよ気づかなくて」
先生は一旦筆を置き、愛想良く微笑んだ。相変わらずの甚平姿。春には違和感を感じたが、夏だとしっくりくるから不思議なものである。作業場である座卓の上の灰皿には吸殻が山盛りになっており、また達筆で文章が綴られた原稿用紙も山盛りになっていた。
今のご時世、パソコンで執筆するのがオーソドックスであることは、浮世離れした鼠でも知っている。しかし先生は、自分のスタイルを曲げず手書きを貫き通しているのだ。ただし、書いているのは純文学ではなくライトノベル。しかし中々、ダンディーである。
「何か御用かな?」
「帰還した私の部屋の同居人が殺気を垂れ流しているのです。今しばらくここでかくまってはもらえませんか?」
「うーん。弱ったなぁ。それだと仕事に集中できないんだよね」
「むむ。ならば致し方ありません。失礼しました」
潔さは大切。八畳間を後にしようとしたところで、私はこの部屋がやけに快適であることに気づいた。率直に言えば、断トツに涼しいのだ。
「猛暑にも関わらずこの涼しさ! これは一体……」
「そりゃあアレだよ」
先生が万年筆で指す先には、景気よく冷気を吐き出すエアコンが設けられていた。不公平だ! 私の部屋には扇風機しかないというのに!
「私はどちらかというと扇風機派だからエアコンは極力使わないようにしてるんだが、今日は流石にねぇ」
「ならば私の部屋の扇風機と交換してください!」
「エアコンは持ち運びできる物じゃあないだろう? それに、扇風機じゃ原稿用紙飛んじゃうし」
困ったように頭を掻くと、先生は畳に散らかった参考資料をパラパラと捲り、原稿用紙に筆を走らせる。できることならずっとこの部屋で涼んでいたいのだが、やはりお仕事の邪魔をしてはならない。静かに立ち去ろうとした私に、先生が言葉をかけた。
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