『千の夏に連れられて』

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(……そう言えば、昔親父が言ってたな) 作家だった父は博学で色々と知っていた。 『便利さを求めることに罪は無いが、怠惰を増長するだけならそりゃ罪だ』 その時は意味が分からなかったが、目の前の光景――現実を見るとその真意を理解できる。 「ん? 何を神妙な顔してんのよ――もしかして、実は泳げなくて今になってビビっているとか? だって海水浴初めてなんでしょ?」 「喧しい。顔は生まれつき、海で泳ぐのは初めてでもプールで泳いでた」 「あらら、泳げなかったら手取り足取りコーチしてあげようと思ったのに、損しちゃったわね」 そう言って悪戯っぽく舌を出す。 本当にこいつはこっちのペースを狂わせる。 物静かで近寄りがたいという学校での自分のイメージが遠い昔のことか、役者が舞台の上だけで演じていた役柄のように思えてきた。 「もうすぐ、この先よ」 そう言われた先にあったのは、 「おい」 「何よ」 「一応確認しておくが、俺たちは海に来たんだよな?」 「ええ、そうよ」 間違いではないらしい。 だが、眼前に広がるのは大海原ではない。 「俺にはどう見ても眼前にあるのは山なんだが?」 「騙されたと思ってついてきなさい」 本当に騙されたと思っている。 千夏は迷わず目の前の山に向かって歩く。 とてもじゃないが人が薄着で入っていく場所ではない―― その考えは最初に千夏が手慣れたように枝をどかしただけで消え去った。 自然の悪戯か人の手によるものかは知らないが、入り口だけ草木で巧妙にカモフラージュされ、その奥は人二人が並んで通れるほど広々としていた。 「獣道?」 獣道はそこを通る獣のサイズに比例する。 これだけのサイズの獣――想像したくない。 「違うわよ。昔の農道の成れの果て。昔はここを車が走ったりしていたらしいけど、今じゃ自然と人間の合作による木のトンネルってわけ」 「へぇ……これは、素直に凄い」
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