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「九鬼さん、誰か来るよ。真ん中歩くのやめて」
手帳を開くと周りに気を使うということを忘れてしまう癖のある九鬼は、朱里の言葉にああ、と答えると、彼女の前を歩き出す。
前から歩いて来る人物に、朱里は呼吸を飲み込んだ。
「──……あ」
前からやって来た男は朱里を見つけると、ほんの一瞬だけ脚を止める。
が、すぐにまた歩き出した。
「九鬼さんじゃないですか。おはようございます。それに、朱里も……おはよう」
にこやかに営業スマイルを貼り付け、そつのない挨拶。
朱里はこの男の、ちっとも楽しそうでない笑顔が大嫌いだった。
──杉本貴文(スギモト タカフミ)。
劇団の代表・演出をつとめるこの男はこの間32歳になった筈だ。
「朱里、見たぞ。《歌姫ご乱心》。生放送の直前に行方くらましたって、本当か?」
そんなふうに笑わないで。
あなたの笑顔はそんな冷たいものじゃなかったって、あたしは知ってるのに──。
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