8/17

11人が本棚に入れています
本棚に追加
/182ページ
腕時計は応じてくれた。ちょうど信号が赤になったので僕は腕時計のネジを巻いた。腕時計はちょっと前から僕の持ち物の中では一番高価なものになっている。もらい物なので正確な値段はわからないが僕には分不相応な代物だと思う。時計を見るたびにこの手の時計は金持ちの息子か、よほどの時計好きか、本来は四十代のそれなりの地位にある人間の腕にあるべきものなんだと思った。僕はそのどれでもなくただで貰ったんだ。この時計が美しいのはよくわかる。肌触りのいいベルト、一点の曇りもない風防、よく磨かれたベゼル。調和の極みみたいに配置されているクロノグラフ、細部まで凝っている。それでも僕はこの腕時計が好きになれなかった。別に腕時計の性格や物言いが問題なわけじゃない。むしろ腕時計の性格は僕にはちょうどよかった。問題なのはこの時計が僕の元に来ることになった経緯なのだ。 僕は妙な歌を聞きながらしばらくの間腕時計にまつわるあれやこれやを考えた。考えがまとまらないうちに車は目的地に着いた。到着時間は十三時五十分(正確には13時48分54秒)だった。道が空いていたせいか二時間かかる道を約一時間(正確には1時間5分7秒)に短縮できた。 “おかしいと思え。なぜ……”  腕時計が何か話しかけてきたけど僕は無視した。僕の現実の耳に蓋はないが、頭の中の耳には蓋がついているのだ。便利なことに。
/182ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加