行ける所まで…

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はたと記憶の霧雨が止み、直人は人の視線を感じた。 顔を上げると、母が遠慮がちに椅子に座る。 「金魚取ったの?」 直人は頷いてまた鉢の金魚を追尾する。 「可愛いものね。」 直人は頷く。金魚の尾ひれが慎ましく揺れた。 不審な様子もなく、母も金魚を見つめる。二人分の視線を金魚は振り切るように、鉢を周回する。 どこか見た風景だった。 金魚。 鉢。 居間。 テレビ。 風。 夏。 祭り。 顔を上げると、母のそれも上がった。解き放たれた金魚は歓呼して鉢を忙しく泳いでいく。 「どうかした?」 母は遠巻きにしか言わない。 「別に。」 憮然として直人は椅子から降りると、居間から離れて行った。 あからさまな反応に母は気付いている筈なのに、共に記憶の網を手繰りよせてはくれなかった。 いつも同じ時間に雨が降る。 いつも同じ所に雲は集まる。 いつも同じ体勢で空を見上げ。 いつも同じ烏が雲間へ消える。 夏休みも中盤に差し掛かり、世間の熱もすっかり失せてきている。 別に呪いの手紙を出したわけじゃないが、弘也からの外出督促状は来なくなった。 直人は寝返りを打つ。すると途端に眩暈がした。内蔵が腹部へ一気になだれ込み、詰め物も消化の流れを止めた。 昼に食べたスーランタンがまだ腹の中で辛みを保ち、喉元まで競り上がってくる。 日頃覇気のない直人が更なる失意に悩まされている事を、祥子は自分の責任と感じているのか、最近はより世話を焼いている。 正直、迷惑だと感じるが、当然の事ながらそう言い通す力もなく、直人はていたらくな体をけだるい日常に合わせるしかなかった。 山積みの課題は、山積した苦悩の波に押し流され、過去と現実と空想が三つ巴になって、争うように直人の脳内で国取り合戦をしている。 雨音から誘われた眠気が二、三日の雷で台なしになり、直人はベッドから起きてパソコンに目を向けた。 あの日以来怖がって触れる事も出来なかった四角い箱を直人は睨みつける。電源も切れず、画面は今もスリープモードで静かな待機音を響かせていた。 箱に近付き電源に震える手を伸ばした時、不躾なノックが直人の体を強張らせた。
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