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「聞こえなかった?」
頭は冷静にそこまで分析した。たが直人は自分の声が僅かでも耳に入ると、冷静さを奪われていった。
「出てってよ。」
「…なんでよ。」
伏し目を上げて、祥子はカッと直人を睨みつける。
「全部、私に当たり散らしてるだけじゃない。」
膿んだ傷口にメスをグリグリと押し込まれても、直人は愉しんでいた。
「祥子さんに当たってどうなるの?」
祥子を見詰めながら、ナイフは前腕の裏に忍び寄っていく。渇ききらない血糊の刃が、また意志を持つように皮膚の海を渡った。
長く細い切り口から鮮血が浮かび上がった。
「何も変わらないよ。」
「…違う。」
祥子には分かっていた。直人は直人自身を変えようとしている。
けどそのために取り戻さなければならない物は他にある。
変わるために…。
「あの日…」
祥子はやり切れない感情を両足の裏に隠して進む。
「直人が飛びだしてった時、お母さん泣いてた。話は聞いてたし、受け入れられないのもしかたないって。」
違うと直人はギュッとナイフを握る。スピード再婚も再婚相手に連れ子がいる事も、直人は拒む所かあっさりと受け入れた。 自分は落としていった。落としてそのままにした。重すぎて、熱くて、凍えそうで、膝が折れそうで、怖かった。
最初の内は手元にそれが無くて堪らなく不安だった。そしていつしかその心の芯が無くなっている事に、なんの不審も抱かなくなった。
大切な物だったはずだ。
たとえ忌まわしい過去であっても…。
「そうやって逃げてても、すぐに追い付かれる。」
逃げてなんかいない。むしろ探している。
「一体、何の為に家族がいるのよ。」
「…。」
「血が通わないのがそんなに気に入らないの?」
「…。」
「何とか言いなさいよっ。」
直人の腕がカタカタと震え出す。
ナイフが暴走を始め、直人の頸動脈を…。
震えるナイフに血が流れる。流れた血はナイフを伝い、唾液のように机に落ちていった。
顔をしかめていたのは祥子だった。
その手はすっぽりと刃を覆い、握った力には迷いがなかった。ナイフは震えながら悶えるが、祥子の手は頑として動きを封じていた。
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