あの人の手に触れる距離まで…

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誰に向かってかけられた言葉だったのか。勿論直人にであるが、本人は贈り先を間違えたような気がした。 男なら泣くな。 機嫌悪そうに、父はいつも喚きそうになる直人を叱り付けていた。 だからこの一瞬だけ貰った温もりが、深いボディーブローとなって、直人の鳩尾に入ったのだ。 肋骨の軋みと詰まる息に、子供のくせに淡が出てしまった。 「あれは本当に父親だったのかなって、もう忘れかけてた。」 忘れたかったのだ。でなければこんなに驚愕しない。 「父の思わぬ一面ね。」 「いや、きっと違う。」 「?」 「あの時父さんは、俺と誰かを混同したんだ。」 「誰かって?」 「…わからない。でも何もかも違うんだ。父さんじゃない。あれは…。」 「二重生活。」 悟ったように祥子は呟いた。 「ニュースで見た事ある。法的に認知された家庭の他にもう一つの家庭を持って、その間を行ったり来たりするって話。」 「そしたら父さんにはもう一つの…。」 「あくまで可能性の一つよ。」 祥子の目はいきり立ったように、直人を捉える。 「限りなく零に近い…ね。」 「でも零じゃない。」 「もし真実だったら…」 「後悔しない。」 言い切った。自信はない。「二つ家庭を持ったってそれはあの人の勝手だ。ただその事が真実かどうかが問題なんだ。」 本音は違う。真実であろうとなかろうと、そういうアウトローな父の性質を、直人は端から疑っていた。 「お父さん、嫌い?」 「その質問自体嫌い。」 「またそういう事言う。」 祥子は立ちあがると、短パンの口端を指先で摘んで引っ張る。 「本当は自分でも分からないんでしょ?」 朝日を受ける祥子の体は、右側だけミロのビーナスさながらだった。 「違うよ。あえて知り尽くした事を蒸し返したくないだけ。」 少なくとも半分は本音である。 「じゃあやってみますか。」 「は?」 「探偵ごっこ。」 どうせ無駄だろうというのか、表情がにたにたしている。 童心に帰りたがっているかのように、祥子の目は爛々としていた。 「俺達のどこにそんな情報網…。」 言いかけてやめた。そう、相手は祥子だ。 「女の情報網を甘く見ないで。」 『女の』とはかなり違う気がした。
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