白猫

2/8
前へ
/58ページ
次へ
僕の鼓膜を揺るがすギターの歪んだサウンド。 耳障りな甲高いリムショット。キックに忠実なベースライン。 イヤホンの中だけに集中していれば、余計な事を考えなくて済んだ。 ああでもそうだ このバンド… 恵美に教えてもらったんだっけ… ここまでくると情けなくすらなってくる。 恵美の事など考えないようにしているのに。 驚くほど、僕の周りには恵美に関係ないものがない。 何かにつけて、 恵美、ばっかりだ。 気持ちが落ちれば、歩く速度も自ずと遅くなった。 さっき花屋の前にいたお婆さんが、のろのろと自転車で僕を追い越す。 それから何故か一旦止まって僕を振り向いた。 「うちの猫、見なかったかしら?」 話しかけられて、イヤホンを外した。 「はい?」 「さっきカゴから飛び出して行っちゃったの…うちの子…」 言われてみると、自転車のカゴは空っぽで。 お婆さんは涙目になって、さっきまで綺麗に結っていたシルバーグレーの髪もぼさぼさだ。 「見てません、すみません」 気のきいた事は何も言えなかった。 なぜなら今の僕にそんな余裕はない。 人の悲しみまで一緒に共有するようなゆとりは、僕の心にはないのだ。 「そう…」 お婆さんは肩を落として、再び自転車を漕ぎ始めた。 その背中を見送ってぼんやり思った。 僕は猫に逃げられたあのお婆さんだ。 いつまでも思い出を探してばかりいないで、早く次に新しい目標を持ったほうがいいんだ。 そうだな…さっきのお婆さんは… チワワでも飼うといい。 どんな服でも喜んで着こなす、トレンド犬なら逃げたりしないはずだ。 ああ本当にそうやってあっさり前を向けたならどんなにいいだろう。 残念ながら僕はそんなポジティブに生きられない。 このよく分からない道を歩いていたら、いつの間にかプツリと僕の存在が消えていたらいいのに。 それかいっそ、思い出ばかりのこの街が、全部なくなってしまえばいい。 そんな空想を膨らませながら耳にイヤホンを戻す。 道にならって次の角を折れたら、ドンと何かにぶつかった。 なんの構えもなかった僕は、不格好にも尻餅をついた。 チリン、と鈴の鳴る音がした。
/58ページ

最初のコメントを投稿しよう!

111人が本棚に入れています
本棚に追加